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2011年4月28日 (木)

山あいの町の子供たちに・・・

こんばんにゃ~night 北の猫男爵ですcat

今日もいつものごとく、仕事を終えジムに行ってきましたpaper。今日のジムのメンバーは、リズミカルBVミスターリトル虎子サッカー部山ガールAゆ、そして猫男爵合計8名でしたhappy01

ジムは明日から3日間はお休みなので、必然的に僕らのジム通いもお休みになりますcoldsweats01。何か別の方法で減量作戦に励むことにしますwink

さて、僕の大好きな高校野球baseballその高校野球の世界には、幾多の「名将」と呼ばれる監督が存在します。これは僕の持論ですが、「高校野球というスポーツは、監督の指導力で8割方勝負が決まる」と思っていますconfident

まだまだ未熟な高校生の潜在能力を生かすも生かさないも、それは監督の手腕にかかっていると思いますpaper。もちろん、桑田・清原のKKコンビや、松井、松坂などのような“超高校級”は例外ですが、ほとんどの高校でプレーする高校生にとっては、「いかに良い監督にめぐり会うか」で高校3年間の充実度が決まると、僕は勝手にそう思っていますpaper

そんな高校野球の世界で「名将」と呼ばれた監督の中に、「攻めダルマ」と呼ばれた監督がいますbell

「攻めダルマ」、この言葉を初めて聞いた方には、いったい何のことやらさっぱり分からない???と思いますのでご説明致します。

その監督はパワー野球upに重点を置き、とにかくイケイケの豪快な攻撃野球で相手を次々とねじ伏せる野球に取り組みましたbaseball。その攻めの姿勢から「攻めダルマ」と名付けられたのです。

「高校野球の本質を変えた」とまで言われた、その監督の名前は蔦文也監督です。知る人ぞ知る、池田高校野球部の元監督ですpaper

徳島県立池田高等学校、どこにでもある普通の県立高校のその名が全国に知れ渡るようになったのは、1974年のことでした。

この年の春の選抜大会に出場した蔦監督率いる池田高校は、わずか11人という部員数で見事に勝ち進み甲子園を沸かせましたnote。結果は準優勝という快挙を成し遂げ「さわやかイレブン」と呼ばれ、日本中にフィーバーを起こしましたup

そして高校野球に「革命」が起きたと言われたのは1980年代に入ってからのことです。その仕掛け人が何を隠そう、蔦監督です。

彼は生徒に筋力トレーニングを積極的に取り組ませ、「芯を少々外して筋力があれば打球を遠くまで飛ばせる」という金属バットbaseballの特性を最大限に生かし「やまびこ打線」という強力な打線を作り上げましたsign03

「カキーン!」「カキーン!」と、とにかく池田高校の選手が打つ打球baseballは、高い金属音を響かせますup

山あいにある池田高校のグランドには、まるで“やまびこ”のようにその音が響き渡ることから「やまびこ打線」と呼ばれるようになったのですが、実際この頃の池田高校の生徒の打つ打球は、他の高校と比べると、ちょっと次元の違うものでしたscissors。当時僕は小学生でしたが、テレビtvで見たあの時の興奮を今だに覚えています。

そんな蔦監督の指導力もあり、池田高校は1982年夏の選手権で初優勝、1983年春の選抜でも優勝し、夏春連覇という偉業を達成しましたshine。この頃の池田高校には、畠山(元南海・大洋)、水野(元巨人)、江上(元日本生命)といったスター選手もおり、まさに高校野球界は池田高校黄金時代を迎えていましたcrown

当時、蔦監督はこんなことを言っています。『ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん、思い切り、のびのび打ったらえんじゃ』

実に“らしい”言葉ですが、その裏には生徒の気持ちを一番に考えた彼の優しさがあるように僕には思えてしかたありませんconfident

その後、桑田、清原の「KKコンビ」を擁するPL学園の登場により、池田高校の強さは影を潜めていきましたが、高校野球界に長く語り継がれる人気校が池田高校でしたconfident

蔦監督は監督就任40年目に当たる1992年に監督業を勇退しましたが、監督して甲子園に春夏通算14回出場し、通算37勝、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残しましたshine

その功績を称えて池田町名誉町民第1号に選ばれた蔦監督、彼を語る上で欠かすことができないが「大の酒好き」だということですbottle

豪快な野球を生み出す「強気」の源が“酒”なのかと僕は思っていましたが、実は彼はものすごく臆病な性格であったということを後に何かの本で知りました。その臆病さを隠すために“酒”の力を借りていたのかもしれませんconfident

そんな蔦監督も歳には勝てませんでした。1991年秋のある日、池田高校のグラウンドに、蔦監督の姿はありませんでした・・・

「目がかすみ、足が痛くてノックができない」それが「攻めダルマ」と言われた名将の監督引退の理由でした。当時67歳、きっと彼の体は限界を遥かに超えていたのだと思いますbearing

冒頭でも述べた僕の持論「高校野球は監督で決まる」。それを証明するかのように、蔦監督が勇退した翌年の出場を最後に、あの史上最強とまで言われた池田高校は約20年の間、一度も甲子園に出場していませんbearing。いかに蔦監督が名監督であったか、それが分かりますよね。

実は今日4月28日は、その蔦文也監督の10回目の命日です。

2001年4月28日、77歳で永眠された蔦監督の人生は、「大好きな野球baseball」と「大好きな酒bottle」に囲まれた幸せな人生であったと僕は信じています。

蔦監督が残した言葉にこんな言葉があります。

『山あいの町の子供たちに、一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ』

この言葉は池田高校の監督に就任して20年目、ようやく初めて甲子園出場の切符を手にした時に彼が残した言葉ですpaper

この言葉は今も、池田高校の構内にある「石碑」にしっかりと刻まれていますshine

蔦監督は自宅を合宿所に改造して野球部の生徒をあずかり、野球だけでなく人間としての教育を熱心に行っていましたconfident

ただ野球が強ければいいということではなく、「人間としていかに立派に生きるかが大切なこと」ということを、彼は365日いつも口にしていたそうです。それが蔦監督の人柄なんですconfident

僕は昔テレビtvで、試合に負けた選手にこう話す蔦監督を見たことがあります。

『野球でエリートになった奴が、必ずしも人生のエリートというわけではない。だから、みんなには人生でもエリートになれるように頑張って欲しい。』

その言葉は、当時小学生だった僕の心に今でもしっかりと響いていますconfident

彼は野球の指導者としても素晴らしい人でしたが、きっと教育者としても優れた人だったのだと僕はそう思っていますpaper

20年間、池田高校が姿を見せることのない甲子園球場の名物といえば「蔦」です。その「蔦」はリニューアル工事の際にいったん取り除かれましたが、今はまた植栽されすくすくと育ち始めています。

その「蔦」が甲子園球場の外壁を覆う頃、またあの強かった「やまびこ打線」が甲子園に帰ってくるのではないかと僕は期待していますhappy01。きっと天国で見守っている蔦監督も、それを望んでいるのではないかな~と思いますconfident

池田高校の生徒が甲子園で活躍する姿を、大好きな「酒」を飲みながら、穏やかな表情で見つめている蔦監督の顔が僕には浮かんできますconfident

今日は僕の大好きな高校野球baseballの、名監督であった蔦文也さんという一人の人物のお話をさせてもらいましたconfident。これが僕にできる、蔦監督への供養だと思っていますconfident

それでは今日はこのへんで。がんばろう、日本!

<今日の名字しりとり> 黒子(くろこ)さん→小間海(こまかい)さん、「小さい間の海」と書いて「こまかい」さんです。これまた珍しいお名前ですね。全国に「小間海さん」は20名程いるそうです。

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